On the Beach
1990年、私はニュージーランドの海を巡っていた。人口の少ないこの南半球の海には、船影も無く岸には人影も無い。ある日私は美しい砂浜に点在する不思議な物体群を見つけた。どこか見覚えのある形、それは自動車部品の数々だった。そのパーツのデザインから、おそらく60年代の車両であろうか、数十台の車がこの海岸に打ち捨てられてから、30年以上の歳月が流れた筈だ。毎日の波に洗われた車は錆び果てて、その形を砂の内に溶かしつつある。私は私のカメラを水平線に向けるのを一時止めて、この砂上のオブジェ群に焦点を合わせた。私は誰もいないこの砂浜で孤独な作業を続けるうちに、文明は終わってしまったのではないのか、という錯覚に捕われた。形あるものが腐食して行く様は凄まじいと同時に美しくもある。そして時間が腐食を促すのだ。文明が腐食するのにはそれ程の時間はかからない。近代文明の象徴のような自動車が溶け失せるには、数十年の時で済むのだ。
私は腐食が始まる前の鉄の真新しい姿をみてみたいと思った。その作例として鎌倉時代(13世紀)の三鈷剣を選んだ。おそらく神宝として神社に祀られていたものと思われるが、私が入手した時には刀身は失われていた。私はその光り輝く刀身を見てみたいと思った。そして私は現代の刃工に、鎌倉時代の様式での復元を依頼した。刀剣の素材となる鉄は玉鋼と呼ばれ砂鉄から作られる。出来上がった刀身は目映く輝き、私の鉄を巡る時間の旅の「今」という起点を示してくれた。思えばあのニュージーランドに打ち捨てられた自動車の数々も、海水に洗われて砂鉄となって海へと帰っていった。今、ここに輝く刀身も、その砂鉄から作られたことを思うと、輪廻転生が思い浮かぶ。人は形あるものを作り出し、形あるものは歴史の腐食に晒されながら、また自然へと帰っていく。我々の肉体も自然の内に生まれ、自然へと帰っていくように。
私は長い間、海に呪縛されてきた。海が私の最初の記憶であり、私の血の流れの内にかすかに残る人類の記憶、いや生命の記憶を海の中に辿るような気がするからだ。私にとって海は羊水でもある。30億年前に生命が海で誕生し、5億年前にその海を子宮に携えて、生命は地上へと進出した。十月十日の母親の子宮の中で、個体発生は系統発生を繰り返すという。子宮壁への着床27日目、胎児はえらを持った魚の形をしている。えらは急速に肺へと形を変え、36日目には両生類の顔になる。そして38日目には哺乳類の面影になる。その10日間程の短い時間の内に、1億年の生命進化劇が子宮の中で繰り広げられる。私は日本に帰る度に、温泉の湯船に一人ゆっくり浸りながら、羊水に浸されたように時間を回帰していく。私が生まれる前の記憶へと遡っていくのだ。何百年、何千年、何万年、そして何億年へと通過していく為の、時の物差し。私は錆び果てた砂上の文明のかけらから、その物差しを得たような気がする。
遠い昔、人類は動物から人間へと長い時間をかけて醒めていった。蒙昧から意識へと。初めて意識をもった人間が見た海に私は想いを馳せる。そして人類が消えたあとの海もまた、静かにそこに佇んでいるであろうことも。
— 杉本博司