Five Elements 389, Boden Sea, Uttwill, 1993/2011

Five Elements 458, Sea of Japan, Rebun Island, 1996/2011

Five Elements 408, Tyrrhenian Sea, Priano, 1994/2011

 

光学硝子五輪塔

 

 

私が海景を撮り続けて30年以上の歳月が流れた。この仕事への興味は尽きることがなく、気が付いてみたら終生の仕事になっていた。海景に興味を持ったのは、それが私の幼児期の記憶に繋がるからだ。思い出しうる最初の記憶、それが海景だった。

鋭い水平線と雲一つない空、そこから私の意識は始まった。私は私の意識の原点である海を巡りながら、人類の意識の原点へと想いを馳せるようになった。海景は私の血の中にも、人類の何十万年かに及ぶ進化の痕跡が残されているに違いないと私に思わせた。人は他の動物達から超然として意識を発達させ、文明を育み、アート、宗教、科学、を発達させ、歴史を紡いできた。そのいちばん始めの意識の発生現場、それは心の発見と言い換えてもよいのだが、海景にはその発生現場の意識を現代に再び喚起させることができるような力が潜んでいるような気がする。 


記憶は時間と共にその輪郭を不鮮明にしていく。私は記憶とは私の脳が捏造した幻覚なのではないかと思うことさえある。人は世界を見たい方法で見る。そこには想像力や幻視力や投影力がはたらく。私は海にのぞむ崖のふちに立って水平線を見つめるたびに、無限遠の彼方を想う。水平線は有限の内にある、そして無限遠は想像の中にある。

数学的な観念は人の脳内で発見されるのであろうか、それとも数学的整合性は宇宙に満ちていて、脳がそれを発見するのだろうか。宇宙物理学によると、ビッグバン以来、宇宙は膨張し続けていて、宇宙のふちは常に私から遠ざかりつつあるという。すると私の想像しうる無限の彼方も、今想った無限遠よりも次の瞬間には、さらにもっと遠くへと去りつつあることになる。

零の観念はインドで発見された、というよりも発明された。零は1に対する対概念として生まれたのではないかと私は思う。1を意識することとは存在を意識することでもある。私がいて、世界がある、という意識。世界の客観化の始まりでもあり、自意識の芽生えでもある。1が意識されはじめて世界は数えることができるようになった。世界は数量化できるのだ。10本の指が人の最初の計算機となった。数えられる数が10を越えて数えられない程の数になった時に、無限が創造された。そしてまた、1を逆方向に辿る、存在の逆、不在と非在が零として意識された。零は自然数のようでいて、自然数でない。負の数でも正の数でもない、偶数の一つとして、人間の想像力のなかから抽出された。

宗教も人間の意識が外化したものと言える。新石器時代の頃には世界各地にアニミズムやシャーマニズムの、万物に霊が宿る多神教が花開いた。それぞれやがて唯一絶対の神としての一神教へと流れが変わっていく。人間は超絶的な力を持つ神の姿に、人間の姿を持った神を重ねてイメージするようになる。それは人間意識の高度化に伴う、人間意識の傲慢化でもあった。人間は人間の中から、神の資質を持つものを選んで、その人間を偶像化して神として祀り上げるようになったのだ。ザラスシュトラもゴータマ・シッダールタもイエス・キリストも、ムハンマドも、こうして神格化されていった。

釈迦が神格化されていく過程については、釈迦の遺骨である仏舎利を祀る塔が、どのように変遷していったのかを見る必要がある。釈迦は生前、世界は諸行無常であるとして、形あるものを崇拝することを禁じていた。しかし釈迦の死後、その遺骨をめぐって争いが起きる事態となる。人々の間の釈迦への思慕の情が、その死後にさらに高まり、釈迦のイメージは一人歩きを始め偶像化されていくのだ。まずはじめに、釈迦の足跡とされる仏足石が作られるようになり、仏像がそれに続いた。釈迦の言葉は様々に拡大解釈され、仏教哲学体系として各種の経典が数百年かけて整備されていった。仏舎利を祀る塔も、初めは土盛りをした小さな丘のような墳塋が作られた。そしてインドの強い日差しを避けるために、その上に傘が置かれ、その傘が尊敬の念のあまりに九輪にも増殖して、さらに屋根が置かれるようになる。こうして相輪を屋根の上に戴いた塔が形作られていった。信仰心の作り出す形というものには、はじめから特別な意味があるわけではない。ただ拝むための対象物として、立派でありがたくなければならないだけだ。拝むことによって、神秘的な力と一体化できるような、崇高な形が自然に造形されてくる。日本にも奈良時代初期に、法隆寺の五重塔の姿となって、仏舎利の塔は伝わったのだ。.

法隆寺五重塔は今見てもその姿は美しく、建築の絶妙なバランスのなかに仏舎利が納められているのだと思うと、崇高な念が沸き上がってくる。現代に生きる私でさえそう思えるのだから、古代にあってはその思いは、如何ばかりであったろう。人々の釈尊への思いの深さが、その帰依する心に応えるような、美しい姿をその塔の姿に与えるのだ。そして美しい形が出来上がると、今度はその形に意味を求めたくなる。

舎利塔の造形は、日本では平安期になって独特の発展を遂げることになる。五輪塔は日本で造形された。その形のもとになったのは、仏教教典のなかで、世界の構成要素とされる五大、すなわち、地、水、火、風、空、であった。釈尊の舎利容器がそのまま宇宙を表現するという気宇壮大な計画だ。信仰心を純粋な形態としてあらわそうとする宗教的野心が燃えいでたのだ。その抽象的な表現は、おのずから数学的な形態をとることとなる。地は方形、水は球形、火は三角形、風は半円形、空は宝珠形、となった。地が方形なのは物質感を表している。水が球形であるのは自明の理だ。火は炎の先が尖って三角に見える。風が半円であるのは、完全な円を過(よぎ)るその風の姿であろう。宝珠は空を表している。空には形がない、形のないものに形を与えるとしたら、それは雫の一滴がしたたり落ちる、その雫の形であろう。雫は一瞬のうちに完全な円となって閉じてしまう。空は世界が閉じてしまう前の一瞬の姿として表されるのだ。こうして世界は舎利塔という模型として、または擬態として捏造されるに至ったのだ。

数学は世界を数字に置き換えて表現しようとする。世界を数学的に理解しようとする心のありようは、私には美と信仰の問題へと先祖帰りしていってしまう。しかし私には、今、帰依すべき対象となるような偶像を持たない。神も仏も去ってしまった現代に取り残された私にとって、その対象がかろうじてあるとすれば、それは私の意識の源である、あの海景なのだ。私は五輪塔を光学硝子で作り、その水球のなかに海景を納めた。


 

 

- 杉本博司

 

 

 

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