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江之浦測候所

 

アートは人類の精神史上において、その時代時代の人間の意識の最先端を提示し続けてきた。アートは先ず人間の意識の誕生をその洞窟壁画で祝福した。やがてアートは宗教に神の姿を啓示し、王達にはその権威の象徴を装飾した。今、時代は成長の臨界点に至り、アートはその表現すべき対象を見失ってしまった。私達に出来る事、それはもう一度人類意識の発生現場に立ち戻って、意識のよってたつ由来を反芻してみる事ではないだろうか?小田原文化財団「江之浦測候所」はそのような意識のもとに設計された。

悠久の昔、古代人が意識を持ってまずした事は、天空のうちにある自身の場を確認する作業であった。そしてそれがアートの起源でもあった。新たなる命が再生される冬至、重要な折り返し点の夏至、通過点である春分と秋分。天空を測候することにもう一度立ち戻ってみる、そこにこそかすかな未来へと通ずる糸口が開いているように私は思う。

 

 

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光学硝子舞台と古代ローマ円形劇場写し観客席

 

隧道と平行に、冬至の軸線に沿って、檜の懸け造りの上に光学ガラスが敷き詰められた舞台が設置された。檜の懸け造りは京都清水寺の舞台、鳥取の三徳山文殊堂などが知られる。冬至の朝、硝子の小口には陽光が差し込み輝くのが見られる。観客席はイタリア、ラツィオ州のフェレント古代ローマ円形劇場遺跡を実測し再現した。この客席からは硝子の舞台が水面に浮いているように見える。

 

夏至光遥拝100メートルギャラリー

 

海抜100メートル地点に100メートルのギャラリーが立つ。建築構造的に野心的な構造が採用された。100メートルの構造壁は大谷石の自然剥離肌に覆われ、対面の硝子窓は柱の支え無しに硝子板が37枚自立している。屋根は軽量化を図った片持ちの屋根で、ギャラリー先端部の12メートルは海に向かって持ち出しとなって展望スペースが併設される。夏至の朝、海から昇る太陽光はこの空間を数分間に渡って駆け抜ける。

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冬至光遥拝隧道

 

一年で最も日照の短い日。冬至は一年の終点でありまた起点である。この特別な一日は、巡り来る死と再生の節目として世界各地の古代文明で祀られてきた。日が昇り季節が巡り来ることを意識化し得たことが、人類が意識を持ち得たきっかけとなった。この「人の最も古い記憶」を現代人の脳裏に蘇らせるために、当施設は構想された。冬至の朝、相模湾から昇る陽光は70メートルの隧道を貫き、対面して置かれた巨石を照らし出す。

隧道の中ほどには採光の為の井戸が設置されている。井戸枠はその鑿痕から中世のものと判断される。井戸枠の内には光学硝子破片が敷き詰めらる。雨天時、雨粒の一滴一滴が井戸に降り注ぐのが目視できる。

 
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石舞台

 

我が国の芸能の起源は古く、アメノウズメノミコトが、隠れてしまった天照大神を誘い出すために舞ったとされる天の岩戸伝説にまで遡る。現在まで引き継がれている芸能では、奈良春日大社のおん祭りにおいて、春日若宮社から深夜にご神体が渡る神事の際に、芝生の舞台上で奉納の舞が毎年演じられている。これが芝居の語源であると言われている。

この石舞台は能舞台の寸法を基本として計画された。素材としての石は当地を開発し地盤を整備した際に出土した夥しい数の転石を主に使用した。この土地は数メートルの地下が強固な岩盤で、近在には根府川石丁場、小松石丁場がある。舞台四隅の隅石には近隣の早川石丁場跡から発掘された、江戸城石垣の為の巨石を配している。その鑿跡から江戸初期に切り出され、江戸城初期計画が完成された為、放置された石材と思われる。舞台の橋掛りには23トンの巨石を据えた。この石は福島県川内村の滝根石で、岩盤から剥がされた状態で見つかった。

石橋の軸線は春分秋分の朝日が相模湾から昇る軸線に合わせて設置されている。演能は夜明け前の薄闇に曙の差す頃始まり、後ジテが冥界に帰る頃にその背に朝日を受ける、という構想でこの舞台は設計された。

 

茶室「雨聴天」と石造鳥居

 

茶室「雨聴天」は千利休作と伝えられる「待庵」の本歌取りとして構想された。本歌取りとは古典を引用しつつ新作にその精髄を転化させる手法を言う。「待庵」は利休の目指した侘び茶の一つの完成形と目されている。それは2畳室床と言う極小空間の内に、壁面の小舞の窓から差し込む光の陰影の中で、見事な空間が構成されているからだ。当時使われた素材は銘木でもなくあり合せの材であり壁も質素な土壁だった。そこでは意図的に山居に籠る聖のような「貧」が演出されたのだ。私はこの待庵の寸法を一分の違いもなく写した。

小田原文化財団のあるここ江の浦この地には、同じく利休作と伝えらる茶室「天正庵」跡がある。秀吉北条攻めの際に諸将慰撫のために秀吉が利休に命じて作らせたと伝えられる。利休切腹1年前の天正18年(1590)のことであった。私はこの土地の記憶を茶室にも取り込むことにした。この地にあった錆果てた蜜柑小屋のトタン屋根を慎重に外して、再度茶室の屋根としたのだ。利休が今の世にいたら使ったであろう素材、私はそれを錆びたトタンと見做したのだ。天から降る雨がトタンに響く音を聴く。この茶室は「雨聴天」と命名された。茶室の躙口には春分秋分の陽光が日の出と共に躙口から床に差し込む。その時、躙口前に置かれた光学硝子の沓脱ぎ石はその小口に光を受けて眩く輝く。

鳥居の古様を残す例として、山形県小立部落にある重要文化財指定の石鳥居がある。この鳥居の形式に準じて組み立てられたのがこの石造鳥居である。柱には中世以前を思わせる矢跡がある。踏込石には古墳石棺蓋石が使われた。古墳蓋石は太古に二分割されたと思われる。

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- 杉本博司