苔の観念
私は植物ー人間になりたい、と思うことがある。この地表を餌を求めて彷徨うこともなく、一所定住で、光と水と空気さえあれば、のんびりと生きていかれる。それに、脳などという、ややこしい器官もないから、うだうだと、考え事をしなくて済む。さらにいいところは、けっこう長生きだ。屋久島の杉なんぞは、縄文時代から生きているという。見上げたものだ。
しかし植物にも性の悩みはある。季節のあいまに、きれいな花を咲かせて、香しく、昆虫たちに媚を売り、おしべとめしべは蜂や蝶が仲人となって結ばれる。そしてやがておいしい実をつける。しかし最も古い植物の苔には、性の分化も曖昧で、男と女の駆け引きも無く、胞子という生殖細胞で増えていく。心地の良い湿り気さえあれば。
その昔、苔は、花の咲かない下等動物として、隠花植物と呼ばれていた。花は咲かないのではなくて、隠れているだけなのだ、と思わせてくれる語感が、私は好きだ。
私が小学校の頃、生物界は動物界と植物界に分かれていると教わった。しかしどうやら、その後、植物とも動物ともつかない原生生物が知られるようになって、この二界法は使われなくなった。南方熊楠がその魅力の虜となった粘菌類も、不思議な生き物だ。腐った切り株などに生育して、粘液を出す。時には、なめくじのように動くかと思いきや、静止して胞子を出し、発芽して子をつくる。
進化の果てなどと豪語する人間も、一滴の粘液から生まれ出ることには変わりはないのだから、どちらの生き方が上等で快適だろうか。そんなことを、つらつらと考えてみる。そう言うこの私の脳も、数十億年の生命の進化の途中経過なのだろう。大昔のそのまた昔、私の脳味噌も苔のようだったような気がする。
私の観念は、苔に囲まれているとき、未来永劫と始まりのない始原のあいだで、たゆたうのだ。そんなとき、私は植物ー人間のエポケー(判断停止)の中にいる。
ー 杉本 博司