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光の棺


 

私は光りものが好きだ。闇に浮かぶ街灯に惑わされる蛾のように、飛んで火に入る夏の虫のように、無意識のうちに、光に吸い寄せられてしまう。そして、ふと気がつくと、危険領域に足を踏み入れている。普通の動物は「火」を恐れる。しかし人間だけは「火」を愛してしまった。

今日のニューヨーク・タイムズの一面には、新しく発見された原人の全身化石の記事が載っている。書き出しはこうだ。「Lucy, meet Ardi (ルーシー、アーディーとご対面を)」。ルーシーは320万年前ににエチオピアの森に生きていたとされる最古の原人と思われていた。ところが今度のアーディーはさらに古い440万年前だ。身長120センチ、体重55キロ。メス、いや、女性だ。すでに直立二足歩行をしていた。旧石器時代が始まるのが250万年前。人間は長い時間をかけて、「火」と馴れそんでいった。

人類が初めて「火」を見るようになったのは、火を見るよりも明らかだ。それはおそらく落雷であろう。落雷による山火事。「怖いもの見たさ」と言う心性が、人間の心の発達の最初期に芽生えた感情であろう。自己保全本能と種の保存本能からすれば、動物達は危険からの回避を、生き残るための金科玉条としなければならない。しかし人間だけが「好奇心」と言う、哺乳類、いや生命全般にとっては突然変異とも言える、異常な行動パターンを喚起する心性を得たのだ。人間の心は好奇心として誕生した。

人類の火遊びが始まったのは、おそらくこのアーディーからルーシーへと進化する頃のことであろう。暗雲垂れ込める天空を切り裂いて、轟音とともに落ちる稲妻。動物達は恐れおののいて、隠れ、逃げ惑う。しかし人類だけはこの現象を、娯楽の少ない原始社会にあって、エンターテイメントとして、余裕を持って眺めることができるようになった。大げさな割にそれほど危なくないということを知ったからだ。この自然界の理解には、記憶という特殊能力の獲得が前提となる。この前、雷が落ちたときも、その前の時も、誰も死ななかった、という、過去と今とを識別する感覚だ。これは時間意識の獲得と言い換えてもよい。そして時間の意識化は、「死」の意識化をも伴う。人間は自分が死ぬことを知ったのだ。

余裕を持った人類は「怖いもの見たさ」から、恐る恐る落雷現場へと近づいて見る。そこには、めらめらと燃え盛る「火」があった。熱くて、眩しくて、近寄りがたい。焼け跡を見ると、焦げたどんぐりや、栗が落ちている。良い匂いがする、食べてみる、うまい。これが人類にとっての幸せな「火」との出会いだった。山火事から火種を持ち帰り、火を生活に取り入れることによって、厳冬期に暖を取ることができた。人類の生存率は格段に上がった。そして、焼いて喰うことで食べらる物のメニューが圧倒的に増えた。それに生で食べるより焼いたほうがうまい。焼き鳥や焼豚は人類史上人気ナンバーワンのメニューだ。

石器時代に入ると人類の頭はますます冴えてきた。石斧を使った動物の解体、毛皮の利用。そして木片を擦り合わせての、火を人工的に熾す技術は、産業革命やIT革命並みの技術革新だった。火は長い人類の夜を照らし、呪術や、祭祀や、演劇に、劇的な効果を与えてきた。「光の棺」には、そんな人類の「火」の記憶が、熾火のように封印されている。それは古代人の魂が萌え出づる、記憶でもあるのだ。

ー杉本 博司

 

 - Hiroshi Sugimoto